違和感の正体

昨日作ったモテマップに色々落とし込んで対立軸を浮かび上がらせようとしていて、ふと気付いたんですよねぇ。9月半ばから非モテ(反モテ)関連の話題を取り上げながら、反モテの皆さんの主張を心情的には理解出来る点がありながらも、どうしても納得できなかったもう一つの理由が*1。道徳的である事をもって保身する、という点がそれです。
道徳ってのはやっぱり社会で共有される「べき」ものです。しかしそれを自らの身を守る為の道具として、閉じた世界で使われる事に対する違和感なんですねぇ。個人もしくは閉じた集団内でのみ語られる限り、それが幾ら道徳的であろうとも一つの価値観でしかありません。ケースによっては単なる自己欺瞞に陥ってしまうのではないかと思うんですよねぇ。


加えて人を攻撃する道具として利用される事も、やはり「道徳」と呼ばれる物の本質から大きく逸脱した使われ方なんじゃないですかねぇ。道徳家として知られる人々は確かにとっても厳しい人たちです。しかし彼らは「徳の道」を広めるという、社会的使命を感じて人々に接しているんですよねぇ。彼らにとって道徳とは、道徳的でない人々を揶揄したり侮蔑したりする道具ではないんですよねぇ。攻撃ではなく叱咤。これ大事かと思うのです。
精神的に追い詰められた際に人を攻撃する事のみが救いとなる事は、心情的に余りにもよく判ります。それを否定するつもりはありません。「間違っているから今すぐやめろ!」と言いたい訳ではありません。ただスローガンのせいで、余計辛いところ辛いところへと行っているような気がするんですよねぇ。


以前私のバックボーンで晒した[複数の女性と遊びの関係を持った]のは、モテの価値観に絶望した挙句「いっそモテに染まってしまえれば楽なのに」と思ったからです。結局無理でした。合わないんですもの、あれ。無理してモテ・非モテの対立軸に乗る事は無いんじゃないかと思いますねぇ。


今回のエントリは一部の方々にとってはとても不愉快に感じられるかもしれません。しかし私は今回のエントリで、その方々の価値観を貶めたいのではない、と言うことは判っていただけると嬉しいなぁ。


なんだかモテマップもどうでも良くなってきました。暫くこの手の話題からは離れましょうかねぇ。