タクシードライバー

この映画見たの、何度目ですかねぇ。初めて見た時19歳の浪人生で、モラトリアムの真っ只中で自分の居場所の無さに怒りを溜め込んだ私は、トラヴィスの得たカタルシスに羨望を感じ自らを同化させようと、すぐさま劇中でトラヴィスの着込んでいたタンカースジャケットを買いにに行った記憶があります。アホですね。モヒカンも憧れましたが、これは未だ達成できず。<<以下ネタバレ含む>>
で、久々に見て思ったのは、トラヴィスも同じくらいアホだって事。ベッツィに振られて(ポルノに連れてきゃ当たり前))、『俺はこんなにも正しい事考えてるのに認められない!』とフラストレーション溜めてアイリスに説教しながら、「何者かでありたい」欲求の暴走に任せて大統領候補を暗殺しようとして失敗して、その勢いだけでアイリスのポン引き一味をぶっ殺す。もうね。アホかと。ギャング一味から少女を救ったってヒーロー扱いされるけど、結局はやり場の無くなった「暴力」を別の誰かに向けただけ。それがギャングで、そこに居たのが少女だったから英雄にされただけ。実際は、汚いけれど少女にとって安息の場所であった人々を奪い、そしてそれは少女の両親にとっては安息の場所の回復であるという矛盾。<<ネタバレ終わり>>
ひょっとすると「ダーティーハリー」*1へのアンサーなのかもしれませんね*2。正義によって正当化される暴力なんてあるのか?との問いなのではないでしょうか。アメリカの語る「正義」で大手を振っている暴力の内実は、実は単なる衝動の寄せ集めでしかない可能性。それはアメリカ内部の貧困、差別といった矛盾を一時的に解消させる為の手段。病的に正義を語るトラヴィスアメリカそのものではないのか。そんな気すらします。ヴェトナム戦争後の時代背景から生まれた作品ですが、現在のイラク戦争後社会が混乱しているアメリカに重ねても、中々味わい深い作品ですねぇ。
しかし、最後のワンシーン。不協和音に乗せてバックミラーに写ったトラヴィスの絵が切り貼りされる映像。あれは何を意味しているんでしょうかねぇ。スッキリしたけど、何も変わってねぇぞ、って事なのかなぁ。他の解釈あったら誰か聞かせてー。



しかし、時間を空けて映画を見てみるってのも面白いですよねぇ。今年の夏にTVで放映された「火垂るの墓」を観た際にも思ったんですよねぇ。むかーし観た時は「節子かわいそう〜〜」だったんですが、今見ると兄に腹が立ってしょうがない訳です。『お前妹ヤバイんだから、いらんこと意地張らずに叔母さんに頭下げんかい!!!』ってなりましたもんねぇ。

*1:1971年。タクシードライバーは1976

*2:因みに私はダーティーハリーシリーズも好きです