脱「脱オタ」

最近あちこちで言われてますねぇ。『脱オタの目指すものはオタク趣味を放棄することではなく、脱コミュニケーション不全とか脱非モテと呼ばれるものだ』って話。まぁ、現実的には『オタク趣味が一般的認知を受けたから』放棄しなくても良い、って話になってきたと言うことでしょう。
んでもね。最終的に目的とするのは何なのか、と。それが肝心じゃないの?と思うわけです。誰かに愛されたいのか。それともあれやこれやの差別を受けなくなりたいのか。どうもその辺りが混ざった状態で話が進んでいる気がしますねぇ。


愛されるってのは、他の誰かと区別して自分だけを特別扱いしてもらうという事で*1、ある種の差別を容認せざるを得ない。これは同時に、差別を完全に否定する事は個として愛される事を否定する事でもあります。そう。どちらも問題の本質では無い。差別されることが問題なのでは無く、侮蔑される事が問題なんですよ。


この侮蔑感情の根っこには、何らかの指標にしたがってヒエラルキーを形成したがるという、拭いがたい階級希求意識がありますねぇ。このヒエラルキーを破壊する為には、マルクス的な階級闘争は役に立たない。ましてや別の内的指標=モラルをもって階級構造を破壊なんて出来ない。別のヒエラルキーが出現するだけです。なんつっても最後には『生理的に嫌い・イヤ』なんて逃げ道が用意されてます。感覚的(って事になってる)問題にされると、社会的問題として論じる道を閉ざされちゃいますねぇ*2。社会的弱者におとしめられながら、社会的問題としては共有されない。困った点ですねぇ。


脱オタ』(若しくは脱非モテ)は、上記のヒエラルキー自体を温存したまま、被差別階級から脱する事に他ならないですねぇ。被差別階級からの脱出を非難したいわけではないんですよ。ただ、これでは問題の根っこが残ったままです。何らかの形で指標自体を解体する必要があるんですよねぇ*3。その指標、今で言うなら過剰なルッキズム、を信奉してしまっている人には、それを相対化して解体する事は不可能でしょう。する必然性も無いでしょうし。そして、外から言うとやっかみとしか取られない。
結局内部に入り込んでから、それを否定して行くしかない訳ですよねぇ*4。スパイとしてモテ勢力の中に入り込む。そして内部からルッキズムを否定し破壊していく。その為のファッション向上術と考えても良いんじゃないか。これこそが効果的な非モテ自爆テロルッキズム狩り』なんじゃないかと考えたりするんですけどねぇ。

*1:違うというのなら宗教的な愛に辿り着かざるを得ない

*2:フェミニズムジェンダー論によって社会化する事に成功したと言えますね

*3:この点で、小林よしのりさんの「最終フェイス」は面白いアイデアだった。作品自体は好きじゃないけど

*4:村上隆さんが現代のイケメンで無かった事が、返す返すも残念ですねぇ