格差社会の問題は「幸せ」の問題では無いんじゃ


資本主義社会である以上結果の格差はありますよ、そりゃ。つか結果の平等を目指すのは共産主義社会でしょ。資本主義経済下で『日本経済に活力を!』ってな掛け声で競争を促進する政策が取られ、結果の格差が拡大する。しかし他方で全体的な水準は向上する。それで何が問題なのか?
それは当然第一世代の結果の格差が次世代の機会の格差となり、競争に悪影響を与えるから。親の世代の所得によって教育水準に格差が生まれる。これは事実。スタート地点が明らかに違う。
これに対して、相続税を強化してより強力に再配分を行うなんて単純な意見も有りますけどね、難しいでしょ。相続税率と相続税徴収額はトレードオフになるってのが定説みたいですし、どっかしら抜け道があるでしょうから。それに徹底的に相続をチェックすると、ひょっとすると資産保有インセンティブが減少して、経済効率に悪影響があるかもしれない。*1


じゃぁどうするんだって話な訳ですよ。
それなら結果の格差で生まれる機会の損失の、最低ラインを底上げしましょうよ、と私は思うわけです。即ち社会保障を充実しましょうよ、教育にかかる費用も社会保障の一部として考えましょうよ、と。
小泉さんが「小さな政府」を志向しており、社会保障費も削減が続けられていますが、本来財政規模そのものが問題では無くて、その内容が問題だったはずですよね。財政支出における国債償還費の占める割合が高すぎる事、公共投資部門が大きい事*2が大きな問題であって、小さな政府を志向して支出規模自体を縮小すれば財政赤字解消に繋がるという考え方は、公共部門として余りにも自己中心的な発想では無いでしょうか。




で、この話を誤って誘導してしまいそうなのが「お金がある(ない)事が幸せ(不幸)なのか?」という問い。これは現在利益を享受している層、下流に当たる層両面から出てきてますね。価値観として見ればとっても真っ当なお話なんですよ。お金使わなくても楽しむ事は出来るし、お金があって何でも出来るけどどれも楽しめない事もある。「幸せ」ってのは個々人の価値観に因る物ですから色んな形がある。当たり前の話ですな。ただこれは裏返すと「お金が無くても幸せでいられるのだから、身の丈に合った幸せを探しなさい」という保守の詭弁に使われちゃう危険性がある。『お金=幸せ』では無いけれども、競争が出来る限り公平に行われるべきな事に違いは無いし、教育費も含めた社会保障を充実させる事は、格差で下流に置かれた層における次世代の選択肢を増やし、競争を公平に近付ける事も疑いないでしょ?その上で個々人が競争に乗らないのも自由だし、それぞれの幸せを見つければいい。
メディアに露出する経済学者が格差社会を『希望、幸せの不在』の形を取って論じるのは広く注目を集める効果があるんでしょうけどね、幸福論と誤解されてしまうと不味いんじゃないかと思うんですよね。あくまでも経済的格差が世代を通して固定化され、選択肢の減少や競争の低下が起きる事による非効率性を問題にするべきなんじゃないかと思うんですけどねぇ。


『格差があろうともそれと幸せは関係ない』って意見を見ると気持ちとしてはとっても同意しますが、何だか狡く利用されそうで心配です。





注:今回のエントリは勢いのみで書いており全くソースを当たっておりません。突込み大歓迎です。

*1:印象論。というかどうでも良い程度の影響しかないかも。まぁ現状は甘すぎるんだけど。

*2:通常会計では随分と誤魔化してあるはず。財政投融資経由での支出を合算すれば『土建国家』の名に恥じない内容だろう。大体IT革命何て言いながらインフラじゃ無くて箱物作ってた公共投資が理解不能だった。