脱オタって実際の所は何なのか考えてみる


ここ数日、hopeless worldさんで話題になってる[脱オタファッション]について色々読んでまして、流れであちこちを転々としてました。で思ったんですけどね、『[脱オタ]とは何を指しているの?』


多くの「脱オタサイト」が志向しているのは、「モテたいオタ達」への脱オタ指南サイトであり、当然の結果としてファッションに関しての指摘が多くなります。でもね、それは上手く行ったとしても下町ボルゾイ風来日記さんにもあるような、「失敗した脱オタの人々」を増加させる効果が強いと感じるんですよねぇ。



そもそも何故にオタクは謂れの無い差別を受けなければならないのか。私、「オタク」と言う言葉が生まれ、そしてそれが蔑称として定着していく時代に学生生活を送りまして、中々感慨深いものがありますねぇ。元々マンガ・アニメを好む人々の間でお互いを「お宅」と呼ぶのが流行した事が語源ですよね。

確かにこの呼び方は「同じ趣味を持つらしいが良く知らない相手」に声をかけるのに、非常に便利な呼び方です。しかし、それ以外の人に「お宅」と声をかけるとどう感じるか。
個人的な感覚なんですが、近しいんだか遠ざけられてるんだか判らない嫌な感じでしたねぇ。隣に座っているクラスメイトに「お宅今日の弁当何?」。何だかとってもシリの座りが悪いんですよねぇ。オタ的な素養を持ち、その後もマンガの話等を一緒にしていた私でも、非常に不快な響きを持つ言葉でした。


この「人との距離感の取り方が下手である」点が、俗に「オタク」と呼ばれる人たちの最大の弱点だと思うのです。「オタク」と言う蔑称が恋愛カーストスクールカーストに、積極的に取り入れられていった過程にも、これは大きく影響していると考えますねぇ。


現在においては、お互いを「お宅」と呼び合う事は無くなっているのでしょうが、あちこちで(やや大仰に)言われる「オタク」の悪い点、「興味のある話題以外会話しない」、「興味のある事ならば相手の様子は無視して一方的に話し続ける」といった部分は、同じ根を持つ問題だと感じますねぇ。熱中する趣味があるのは無論良い事です。ただ、その趣味で生計を成り立てたり、余程のエキスパートにならない限り、「ある一つのジャンルの会話しか成り立たない変な人」のレッテルを貼られるのも無理は無いか、と。


清潔感の無いファッションも、人を遠ざけるという点で問題ですが、こちらの問題も解決しなければ、「真に」脱オタしたとは言えない気がしますねぇ。求めすぎなのでしょうかねぇ。


7/22追記
hopeless worldさんでは、わざわざ「脱オタの難しさ(ファッション編)」って銘打ってあるんですよね。私がぐだぐだ言ってる事なんて、当然の事として判ってらっしゃるんだろうなぁ。次は「対人関係編」なのかな?