議論の上澄みとして醸成されるもの

前回のエントリに引き続き、世界のはてさんでの恋愛は醜いにおけるコメントでの遣り取りについて。


こちらでは「女性は醜いか否か」の話になっていたのですが、私、どうしても納得いかなかったんですよねぇ。元々覚悟氏の「自分が出来る事、相手に求める事」のエントリにて「こういったムーブメントに乗る女性が如何に醜いか」といった話から始まったわけですが、何時の間にか「○○な女性が醜いか否か」ではなく、「女性は醜いか否か」になってしまった感がありましてね。


女性の醜さの根拠として[高校3年生のSEX経験者数」ですとか、[妊娠中絶率]等が挙がった後、当の覚悟氏の『上記のような論拠(中絶率、浮気率)から導いた「女性の醜さ」に対して反証となる根拠とは?ということでした。』と言うコメントの流れで、『○○な女性は醜い』から、『女性と言うものは○○をするものであって、醜いものだ』という考え方を生む土壌ができつつある、と感じずにはいられませんでしたねぇ。


尚且つ中絶に関してで言えば、望まずに堕胎せざるを得なくなった女性などの個別の事情を捨象して、「醜い」根拠に利用する事に対しては、激しく憤りを感じますねぇ。数字だからとは言っても、簡単に捨象されるべきでない事柄も多く含んでいる筈です。
また少し別の話になりますが、さんざ遊んだ挙句妊娠して「しょうがねぇなぁ」と中絶する女性は、私だって嫌悪します。ただ、それを真に反省した相手に向かって「お前は一生屑だ」と言い放つ事が(今回のエントリの話ではないですけどね)、果たして高い道徳観に誇りを持つ方のすることなんですかねぇ。喪男の方々の言説にモラリストとしての誇りを感じる事が多いのですが、厳しい道徳観を持つ事とモラリストである事は、同じでは無いと思うんですねぇ。


勿論、議論の中心を成していた方々は「全ての女性がそうでは無いと理解している」と述べていらっしゃいましたが、「女性は醜く無い」と言われた事に対し、「いや(この場合)醜い」と反論する過程で「悪い例」として挙げられたものと「女性とは」と語られる事との、両者の上澄みとして、女性全体に対する認識として「醜い」という考えが醸成される、と言うのは行き過ぎなんでしょうか?割とそういう論調を、喪板なんかでは見る事ありますけどねぇ。


こちらの方は女性で事情は異なるとは思いますが、kmizusawaさんのサイトでご本人さんが最後に仰っているような

非モテ」自体が悪いわけではない。コンプレックスにまみれて自分をさげすんだ挙句に他人をさげすむ方向に行ってしまうのが問題なのだ。

こんな問題が生まれてくるのではないか、更なる悪循環が生まれているのではないか、そんな気がします。