ファッションによる差別と侮蔑

先日のエントリ『脱「脱オタ」』に対して、sivadさんより次のようなブクマコメントを頂きました。

『外見に感情が左右されること自体はどうしようもない。必要なのは多様化。』

仰るとおり『外見に感情が左右される事』それ自体の存在は否定できません。ファッションと言う徹底して外部化されたツールは、我彼の差異を一瞥しただけで認識させる事に適した道具ですし、そこには好みがあるでしょうから。上掲のエントリ『脱「脱オタ」』にて『差別されることが問題なのでは無く、侮蔑される事が問題なんですよ。』と書いている様に、私は他者との差異を求める感情を否定しません。自我を意識する際、そこには常に自我とは異なる他者が存在し、その差異を持って自己たらしめる事になるからです*1。そしてこれはファッションにおける差異化でも同様だと考えています。


服飾と言うのは本来、社会的行事におけるルールとして存在しました。それが階層の多様化に併せてそれぞれの経済力・政治力を表わす形で多様化され、続いて趣味嗜好という個々の自己の外部化を受けて更に多様化したと言えるでしょう。この意味においてファッションは既に充分多様化されており、それらが存在する事に何の問題も無いと考えています。服装がアイデンティティの一部になっても一向に構いません*2


問題は『侮蔑される事』なのです。現代においてファッションは『○○系』という言葉でカテゴライズされた上、内面までもそれに合わせて類型化して捉え、他者を排除するツールとして機能している側面がありませんか?
ファッションは表層です。単なるガワです。同じ系統のファッションが好きだとして、そこに至った経緯は千差万別でしょう。『少なくとも同系統のファッションの話題が共有可能であろう』という取っ掛かりとして利用することは出来ますが、内面までは計り知れない。更にはファッションに気を使わないからと言って侮蔑する事は許されない*3。服飾でアイデンティファイする事を強要される謂れはどこにもありません。

無論結婚式や葬式にジーンズで出席するといった行為は、場の規範を破る事ですから責められても仕方ありません。しかしそれとこれとは全く違います。自己表現における服飾と、社会のルールとしての服飾は同列で語られるものではない。だから私は『オタクルック』に対して好き・嫌いと言う好みがある事は許容しますが、オタクルックをもって他者を侮蔑する行為を批判します。


脱オタ』『脱非モテ』という行為は、『オタクルックという侮蔑対象として扱われる服装を脱ぎ捨て(若しくはファッション術を向上させ)、外見的に侮蔑される頻度を減少させる』事を初期段階として提示します。前回も述べた通り、これは『侮蔑』を産むルッキズムを指標としたヒエラルキーに対して何ら批判していません。hazama-hazamaさんが言われるように『なんで非モテが差別*4をしている側にあわせなきゃならんのだ!!』という言葉が出て来るのは至極当然の事です。そしてumetenさんの仰るように『ファッションからの撤退』をした上で、ファッションに拘泥する事を批判する行為は、退却ではなくむしろ『積極的放棄』と捉えるべきでしょう。hazama-hazamaさんといいumetenさんといい、正々堂々とした態度で反論している様に感じます。
私が前回提案した『ルッキズム狩り』は相手を騙し討ちにするような、かなり卑怯なやり方です。しかし、正々堂々と正面からファッションを相対化し侮蔑構造を批判する方法は、ファッションというモノサシを背中に挿して立っている相手には、見えないそのモノサシを相対化することが困難であり、中々に通じないのではないか*5。そう考えているからこそ『後ろに廻ってモノサシを折る方法』として提示してみた次第です。
ファッションは外部化されたツールだからこそ、敵の手にある武器を我が手に持って反撃する事が出来る。そして表層でしか無いからこそ、たかが着飾った所で敵におもねる訳でも無い。そういう使い方も中々面白いのではないか、そう思うのです。*6

*1:Leiermannさんのブクマコメントへのある種の返答になるかもしれません

*2:比重が高すぎると内面の底の浅さも知れるが

*3:不潔なのはヤメテ。お願い

*4:私の言う所の侮蔑か

*5:誤解して欲しくないのですが、天馬さんを否定している訳ではありません。方法論として脱オタク・脱非モテを必要とする人はいます。しかしそれこそが常に良い方法では無い(この点は充分ご存知かと)、そしてファッションをモノサシとして利用する際に、現在では避けられない侮蔑問題が立ち上がる部分がある、と言う事を伝えたいです。

*6:因みに個人的には人がオールユニクロでも無問題。自分自身も価格と実用性考慮の結果ユニクロ増殖中。不潔でなければ何でも良いです。