ミソジニーはジェンダーについても言及されるべきか?

Leiermannさんの所のこの記事についたトラックバック(kusamisusaの日記さん・烏蛇ノートさん)で出てきた話題について思った事を幾つか。


「恋愛」がある一人(若しくは特定範囲)の人間を特別扱いする行為である以上、それが差別的側面を持つ事は否定できないでしょう。しかしヘテロセクシャルである男性が恋愛を否定するからと言って、それが即ちミソジニー(女性差別・女性蔑視)になると言うのは余りに短絡的ではないですかねぇ?


ミソジニーは、女性の持つ個別的事象を捨象して女性というセックス全体を差別・蔑視するものですよねぇ。私は、Leiermannさんがこれまで記事の中で繰り返し否定してきたのは、セクシャリティにおける「男」や「女」に含まれる「ジェンダーに根差したモテ志向」であると受取ってます。彼の主張は、仮に彼がホモセクシャルだったとしても、セクシャリティに対する嗜好として特に破綻は無いですねぇ。*1
ジェンダーセクシャリティに含まれる物として自明とするのであれば、彼がジェンダーにおける「女性性」を嫌う事はミソジニーと呼ばれて止むを得ないでしょう。しかし、ジェンダーの押し付けを否定する立場から見た場合、「ジェンダーを含めた女性」を否定してはならないと言う事は、ジェンダーそのものを肯定することになりかねませんねぇ。逆にセクシャリティに含まれたジェンダーを個人の嗜好において拒否する事、それ自体がジェンダーの押し付けから自由である事になるやもしれません。
これはミソジニーとは異なる考えだと思いますねぇ。


無論ジェンダーに生得的性差と切り離せない部分がある為ミソジニーに陥る危険性があるという指摘は正しいですし、ジェンダーが社会的性差と言われるようにそれが社会的抑圧として機能している事は勘案するべきですが、少なくとも「恋愛」という個人的事象に関する事においてそこにある程度以上の嗜好が存在しうる事は肯定されなければならないと考えますねぇ。*2


何よりLeiermannさんは前述の記事の中では、「キモい」と自らを差別する「男」や「女」のセクシャリティを否定すらしていませんねぇ。寧ろ自らに与えられた「キモい」というセクシャリティを受け入れた上で恋愛からの撤退を謳っているに過ぎません。id:crowserpentさんの仰るように帰納法的誤謬はありますが、自らのセクシャリティを侮蔑されるような経験の場合、当人にかかるストレスを鑑みれば少なくとも『能動的に「受動性」を選』ぶ選択肢は用意されてしかるべきでしょう。それすら許されないのなら、現在セクシャリティにおいて「キモい」とされがちな人々は最前線で侮蔑を受け続けなければならなくなります。



と、捏ね繰り回してみましたが私の頭ではこれが限界。まぁセクシャリティつってもお国によって違いがありますし、どちらかと言うとこの場合強すぎるルッキズムが原因になってるんじゃないかと。そのルッキズムも異人種には上手く働かない面がありますからね。Leiermannさんには国際結婚(恋愛)を勧めてみる、という無茶な結論を出してみるテスト。

*1:一部怒りが篭りすぎてしまう部分を除いて

*2:当然「恋愛」においてバックラッシュ的な嗜好が存在する事も肯定されうる