「男」や「女」である前に人間である

先日のエントリに頂いた素朴さんのコメントへの返答が長くなりましたので別エントリとして。ご覧になる方はまずは素朴さんのコメントをご一読下さい。



仰っている「人間としての振る舞い方」の部分、同感です。これは女性が「女らしさ(女性性)」を問い直す事、男性が「男らしさ(男性性)」を問い直す事無しに考える事は出来ないでしょうし、『対立する概念を作り上げ、それを体現する者を差別し貶め排除する』事は避けたいと思っています。


id:Leiermannさんの言葉について。

>私は「男らしさ」が嫌いですし、鉤括弧付きの「男」として見られることも嫌いなのです。
>なぜなら、「男」として見られれば「女々しい(なんたる言葉!)」「キモい」としか扱われないからです。
これを逆から読むと、こうなります。
「女々しい」「キモい」と扱われるから、鍵括弧付きの「男」として見られることが嫌いだし、「男らしさ」も嫌いだ――
「女々しい」「キモイ」と扱われなければ、鍵括弧付きの「男」として見られてOKだし「男らしさ」を受け入れる――
条件付きの「「男らしさ」の押しつけは嫌だ」ってわけですよね。
(もっと言えば。「私が「男」に見られない・「男」でいられないのは、「女々しい」「キモイ」と言う人々のせいだ」となるんやないですかね。無理やり「男」になる必要はないにも関わらず勝手に「男」になろうとして――上述したように、現にそれをやろうとしている人・やっている人々はいるんで――、それができないのは他者(関連エントリ記事の文脈からは、対象は主に女性だよね)のせいだ、と言ってる)

この部分ですが、私はストレートに読みました。何故なら彼が後段で「キモい」・「女々しい」を受け容れているからです。「男」では無い、そして「女々しい」し「キモい」。これを受け容れる事で「人間」(素朴さんの言う鉤括弧有)では無いと認める。これは『鉤各個無しの人間』から始める、という宣言だと受取れました。人間である事に立ち戻って、そこで問題になる自らに内面化された「男」「女」を問い直す。そういう区切りのエントリだと感じたんですよね。*1


自己承認に至れないほど、外部からセクシャリティにおけるジェンダー・バイアスを受け、同時に内面化されたジェンダーに苛まれる状態から脱するには、上記の方法が最も正解に近いのでは無いかと考えます。現時点で「自分自身が受け容れられずにいるジェンダー」を内面化している自分を、まずはそのまま承認する。何故ならそれが現在の自分であるから。諦めてしまいジェンダーを無批判に受け容れると言う事ではなく、問い直す為の立脚点を明確にするという事では無いでしょうか。*2


結果的にそれは個々人の内面における男性性・女性性を否定する事にはならないかもしれません。自らを問い直す過程で顕わになる内面化されたジェンダーには、自らの志向によって獲得したものと社会的な抑圧として与えられたものがあり(完全には分別できないでしょうが…)、個人の生得的傾向において完全に消す事は出来ないでしょう。ただ私は個人の範疇においてそういったジェンダー趣向が存在して良いと考えています。*3 勿論社会的にかかるジェンダー・バイアスは出来うる限り排除するべきと考えますが、個人の趣向も認めないと言う事になると新たな抑圧構造でしかありませんよね。それに、そこまでジェンダーを解体した後に残る「男」は、ミソジニーを産む類のものでは無くなるんじゃないでしょうか。*4 そういう意味で私の考えは、素朴さんの仰る『「男」として「人間の振舞い方」をしようと』している人の事だと思います。
こんな感じです。



何だかLeiermannさんの欠席裁判みたいになって申し訳ない。
ごめんなさいね>Leiermannさん

*1:違ったら残念

*2:先日の劣等感のエントリはその辺りも意識してます

*3:関係ありませんが、私は「女性的な」女性がとても苦手です。一般的に男受けすると言われるタイプの女性といると苛苛してきますw

*4:甘すぎ?