空気を読む

「空気を読む」行為が何だか悪者にされつつあるようでちょいと気になってきた。
これって即ち『その場にいる人々の顔色、仕草、発している言葉の内容、そしてその発言の仕方(声・タイミング)から、今その場のパワーバランスがどうなっているのか、そして何処へ向かおうとしているのか、を的確に把握する』事です。語彙、文脈を完全に理解していても、それを発している最中の表情を読み取れなければ「空気」は読めない。要はコミュニケーションの様々な要素を包括的に理解してこそ可能になる、高度なコミュニケーション手法だと言って良いでしょう。
問題なのは「空気を読む」が「その場に合わせる」の意味で使われる場合なんじゃないかな。「四の五の言わずに皆と一緒になりなさい」という意味ならパワハラの類です。


その場の空気を読んだ上で、おかしな方向へ向かっていると感じればそれを正すように関わる、そのまま進めた方が良いのであれば乗っかる。勿論この関わり方(言葉の選択やタイミング)も空気を読んだ上で最適な方法が選択されなければならない。それも含めて中々難易度の高い手法ですよ。上手く使いこなせればかなりの武器になる。以前のエントリでビジネスシーンで要求されるものは「ネゴシエーションスキル」に他ならないってな感じの話を書きましたが、「空気を読む」技術は角を立てずに交渉するのに確かに役立つ技術です。
ただし上掲エントリで書いているように、コミュニケーションを「作用の連鎖」と捉えた場合、目的達成を終着点とするのは非常に一面的だと考えています。共同作業の場において求められるコミュニケーション(交渉)と、偶発的に発生するコミュニケーション(交流)は異なるものです。


結局

  • コミュニケーションが「目的達成の為の手段」としてしか捉えられていない事。
  • コミュニケーション手法の一つである「空気を読む」が、同調圧力としての側面が強く出ている事。

この2点が一連のコミュニケーションについての議論から導かれる問題点じゃないでしょうかねぇ。