やっぱり揉めてる「コミュニケーションスキル」

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20050819(世界のはて)
http://d.hatena.ne.jp/Kowalski/20050819(vanising point)
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/08/post_6a1d.html(純粋なココロ)


新しい言葉を定義しようとすると難しいものですねぇ。それも「コミュニケーション」なんて、元々日本語に適当なものが無いから、そのまま使ってるような物に関してだから、尚の事なんでしょうねぇ。


とは言え「コミュニケーションスキル」という言葉を積極的に使いたがる人達に見られる傾向として、「侮蔑・差別されるのは、される側の人間に非がある」という視点が強いですねぇ。人によっては「オタク趣味に因って差別される事に対して、疑問を持たない、若しくは積極的に肯定する」姿勢が見られますねぇ。言い換えれば「理解の及ぶ範疇に同化させよう」という傾向が強いというか。


対して「コミュミケーションスキル」という言葉に抵抗を感じる側の論点は「スキルと言う言葉に集約し、画一化を図るのは如何なものか」という問題提起。


うーーーん。コミュニケーション不全ですねぇ。どちらも競争社会の激化に因って起きてきた、「勝ち組」・「負け組」を、どの位置で平準化するかに対しての答えを模索しているとも言えますねぇ。「同化主義」と「放任主義」とでも言えますでしょうか。


「道徳観念の無い同化主義は、勝ち組への同化を強制させる」
「道徳観念の無い放任主義は、社会構造を破壊する」
ま、どちらも最低限の社会通念としての道徳が無ければ、上手く行きっこ無いんですよねぇ。もうね、道徳って言葉が気持ち悪いんであれば、常識。最低限の思いやりとか、人類愛レベルの。胡散臭いですけどね、そんなもんかと。


私は強者の論理に捉われ易い「同化主義」よりも、より柔軟な「放任主義」を選びますねぇ。モノサシは一つでは無いわけですしね。