結局の所「非モテ」で語られる問題とは何なんだろうか(未完)

非モテ(あるいは喪男)とカテゴライズする事の難しさ】


前回のエントリにて質問をさせてもらいまして、あちこち不備もあってご迷惑をおかけしつつも、沢山のコメントを頂きました。ありがとうございます。


頂いたコメントを読んで感じた事は、「非モテ」と一括りに語られる方の中には、矢張り様々な人がいるのだな、と言う事です。これは非モテを「喪男」と言い換えた所で同じであって、「女性にもてない」というモノサシ一つで測った言葉でカテゴライズする事自体の問題を感じざるを得ませんでした。頂いたコメントやあちこちのサイトを廻って私が受けた印象で分けさせていただくと(1)恋愛不要派、(2)恋愛トラウマ派、(3)恋愛忌避派、(4)恋愛憧憬派、という形になります。更にカテゴライズする形になるので、気分を害される方もいるかもしれませんが、あくまで私見と言うことでご理解いただきたい。


(1)恋愛否定派
3次元における恋愛そのものに当初より興味が無い方々。全く興味は無いし、価値も無いと考えているにも拘らず、周囲より恋愛主義を押し付けられる為反発心を感じる。


(2)恋愛トラウマ派
当初は恋愛自体にはポジティブだったが、自身の人格否定にまで繋がるような経験に強く失望した結果、恋愛に対し強い不信・反発心を感じる方。


(3)恋愛忌避派
恋愛自体は否定していないし特に重視していなかったが、恋愛至上主義の同化圧力に強い反発を感じ、恋愛を遠ざける方々。


(4)恋愛憧憬派
恋愛は否定しないし現在においても憧れる面があるが、これまでの経験から恋愛に対して悲観的な観測を持つ方。


他にも、恋愛に関係なく深い人間不信に陥るような経験の結果、恋愛関係にも同じ問題を強く感じ恋愛と距離を取る方もいらっしゃいますね。いずれの場合も怒り・反発の元になっているのは「恋愛至上主義への異様な同化圧力」で、ラブハラスメントの問題は根深いのだなと感じています。で、思ったんですけどね。「非モテ」・「喪男」ってのは、単にモテナイ状態をあらわした言葉ですよね。だからそれ以外の人々は全て「モテ」って事になって、議論が混乱する事もしばしば。今後私はこういった場合「反モテ」という形で統一したいと思います。*1


【外見で測る事、モラルで測る事】


覚悟さんやRSRさん、護さんから「もてない男性に近寄る純粋な女性は居ないし、これまで純粋な女性にあった事は無い」と言ったコメントを頂きました。しかし男性に対して同じ事を感じている女性も、みなさんと同様にいると考えています。先日のエントリで挙げさせて頂いた「負け犬の処女率」から演繹的にそれを導き出す事は容易です。恐らく彼女たちの中にも、皆さんと同様に自らを道徳的に律し、「もてない女性に近寄る純粋な男性は居ないし、これまで純粋な男性にあった事は無い」と考えて居る人がいるのではないでしょうか。*2この点で私は、「女性全体」という言い方に反論を繰り返しているのですが、帰納法演繹法の違い故か、中々議論がかみ合いませんね。
勿論、恋愛至上主義に傷つけられた人々のグループカウンセリング的な見地で考えれば、喪男道さんで語られる内容において、女性を醜いものとして統一する意味は理解します。しかしそれは一歩外に出ると、個人のモラルをものさしとして他者を侮蔑する行為になる可能性があり、恋愛至上主義者が外見をものさしにして人を侮蔑する行為と、同じになってしまう危険性もまた内包していると考えます。「愛」という大きな枠組みで見た場合、人々を「善い物とされるモラル」をモノサシとして測る行為と、「外見・容貌の美しさ」というモノサシで測る行為は、自己の基準を絶対として測る行為と言う点で、同じ物です。*3


【純粋な愛】(注:書いた本人がとっちらかってます。ご容赦の程を)


所で、皆さんのおっしゃる「純粋な女性」・「純粋な(真実の)愛」って何ですか?完全なる無償の愛ですか?残念ながら私もそういった愛を見かけたことがありません。これからも見る事は無いだろうと考えています。
私はそれで仕方が無い、と思っています。個人的な考えですが、社会における金銭的ストレスや、その他諸々のストレスに全く影響を受けない「真実の愛」を要求することは、現実社会において余りにも相手に対して過酷な要求だと考えるからです。倫理性や精神性といった抽象的部分でのみ「愛」を語る事は、夢想的に過ぎると考えています。恐らく私の妻も、私のことを愛しているとしても、金銭的な部分で私に依存している部分はありますし、それが問題になる事があるかもしれません。家族であろうとも心から憎しみあう事があり、ある時期どれほど相手を大切にしていようとも、ある時がくれば相手を傷つけることのみがその人を救う手段になるからです。だから私は絶対的な愛を信じていません。皆さんの仰る様な「純粋な愛」とやらは私にとっても残念ながら、当然の事として存在しないと思っています。


同時に、私は純粋で無い愛を否定しません。私は、非モテ(喪男)の方の中に、女性に傷つけられ続けたからこそ、自分を守るために女性を否定する事で安寧を得る方が居るのと逆に、現実にモラルの欠けた人間に傷つけられる事を許すことで、自分という人間を保ってきたからです。許さなければ、私が存在する事が肯定されなかったからです。自分語りになりますが、私の父は道徳的に許されない男性でした。そしてその父に傷つけられ続けた母にとって、私は父と母とを繋ぐ鎖として存在しました。今でも父の行為を道義的に是認することは決して出来ません。しかしそういった人間の存在を許さなければ、私自身が存在する事を肯定できなかったからです。ですから私が、私が「モテ」側の人間と区分される事に強い違和感を感じます。*4


それから、私にとって何より不思議なのは、「愛」が常に与えられるものとして語られる事です。実体として有る訳で無く、見えたとしても影のようで、いつ消えるか判らないような「愛」なんてものを、「かくあるべき」と規定して話されている事自体が不思議でなりません。*5そしてそれを外れた人間を、侮蔑する行為も不思議で的外れに感じます。そもそもありもしないものに照らし合わせ、それを外れているとして否定する事の何と不毛なことかと思います。
私にとって「愛」とは、不定形な人の心の中において、優しさを定型なものとして形作ろうとする行為・努力という断片的なものです。ですから私は、その努力が垣間見える人を積極的に許します。*6


うーーーん。1日考えたんですが、自分の中でも上手くまとまりませんねぇ。アンケートという形態を取ったからこそ、自分語りと返答とでどっちつかずになってしまった自業自得なんですけどね。読みにくいと思いますが、お時間あれば一つお願いします。

*1:4の方は反モテに入るか微妙

*2:女性の場合「見られる性化」の浸透圧が高いので、表立った反論としては上がりにくい事、フェミニズム闘争に置き換えられている事から、男性と同じ形態では表出しにくいと考えています

*3:Masaoさんの所でも言われてますけどね

*4:TB頂いたこころ世代のテンノーゲームさんでも言われてますね。私には理解不能です

*5:体現していると言われるような人々は、宗教的・社会的使命としてその行為を自身で肯定しており、あくまで例外的事象だと考えます

*6:当然努力せずに、恋愛至上主義のモノサシのみで生きていく人を非難します