飯は食わんと生きていけない。けれども、だ。

前回から引き続き『電脳ポトラッチ』さんに対してのエントリになります。
普遍なものは何か
前回記事にて『普遍』が誤解されたとの事で今回のエントリを挙げられたそうです。が、誤解が高じて決定的な亀裂にまで行きそうな気配。

(1)普遍性があるもの→他者とのつながりを欲する気持ち・それを持たなくてさみしい気持ち・孤独感・好きな相手のために何かしたいという気持ち

で、私は懲りもせず飯の話で喩えます。
前回は恋愛をカレーに喩えました。で、それより一歩引いた『他者とのつながりを欲する気持ち』を喩えるとすると、それは『食事』そのものです。人間が生きていく上で欠かせない『食事』。社会的生物としての人間にとって『人との関わり』というのは、切っても切れないものでしょう。その意味で『普遍』と言いたい気持ちは良く判ります。
しかしね、拒食症の人はどうするの?食わないと生きていけない、けれども食えない、食いたくない。その相手に『生きていく上で必要なのだから食え』と言うのは、こういった疾患に対して最悪の対応なのですよ。誤解の無い様言っておきますが、『非モテ』が精神疾患だと云いたい訳ではありません。ただ、人間関係に痛めつけられ精神的にギリギリまで追い詰められた人が、対人恐怖症になったり鬱になったりするケースがある。それでなくても引き篭もってしまう事などが容易に想像できますよね?
私、実は拒食症に近い状態になった事があるのです。この時はですね、ちょっとでも食べ物の匂いがするだけで猛烈な吐き気を催す。何気ない瞬間に『あ、お腹空いたかも』と思っても、いざ目の前にするとたまらなく気分が悪い。無理して食べてもすぐにもどす。そういった人に対して『人間は食事をする生き物だよ〜。食え食え』と言うのは、非常なストレスとなり大抵の場合より悪い状態になります。そのまんま人間関係に当てはめてください。
このケースにおいて人間関係を忌避する人を『普遍的で無い』枠に貶めることは、『拒食症の人も無理して食え。それが自然だ。出来なきゃ死ぬぞ。』という意味を持つ危険性を理解して下さい。id:Leiermannさんは、ご自身も理解してらっしゃるように『真の非モテ』では無いでしょう。『真の非モテ』は『拒食症で何にも食べられず、生の維持が困難な人=オン・オフ問わず完全に人と関わらない人』、すなわちblogでこんな議論なんてしない、出来る状況に無い人の事です。『普遍』という言葉は彼らを絶望的なまでに排除する言葉です。私は非『非モテ』ですが、無遠慮に使われた『普遍』という言葉に非常に反発を感じずにいられませんねぇ。その辺りはナツさんに是非ご一考頂きたい。